先週の部下との面談、うまくいかなかった気がする。昨日の会議でも、自分の発言がどこか空回りしていた。家に帰っても、妻とかみ合わない会話がまた続いた。そして今朝、重い気持ちで目が覚めた――そんな「連鎖的にうまくいかない日」が続いているとしたら、あなたはどうするだろうか。
管理職に昇進したばかりのころは、「完璧にこなさなければ」という焦りが常につきまとう。部下への接し方、提案の通し方、家族との会話。どれも思い通りにいかないとき、人は往々にして「自分はだめだ」という自己評価の罠に落ちる。しかし、その罠は本当に避けられないものなのだろうか。
パリに20年以上暮らし、医療機関でのビューティーケアを通じて人の老いと向き合ってきた著者・ゴダール敏恵の『70代からのパリジェンヌ・スタイル』は、そんな問いへの意外な答えを、70代・80代のパリの女性たちの生き方から導き出している。美しく老いるための表層的なヒントではなく、困難な現実のなかで「自分のご機嫌を自分でとる技術」を、実際の人物のエピソードを通じて語る一冊だ。
「悪い日は何もしないと決める」という、驚くほどシンプルな知恵
本書の第1章に登場するブリジット・ルボンは、74歳のパリジェンヌだ。彼女は自分なりの哲学をこう語っている。
「悪いことが続く日は、もう何もしないと決めて次の日を待つの。翌日はまた、新たな始まりだから」
読んだ瞬間、少し拍子抜けするかもしれない。それほどシンプルな言葉だ。しかし、この言葉が持つ意味は深い。彼女は「悪い日を良い日に変えよう」とは言っていない。「悪い日を無理に乗り越えよう」とも言っていない。ただ、「今日はそういう日だ」と受け入れ、翌日に委ねると決める。
これは心理学でいうアクセプタンス(受容)の実践だ。状況を変えようと消耗するのではなく、あるがままを受け止めることで、かえって精神的な弾力性が高まる。ブリジットが「幸せを探しているのではなく、できるだけ不幸な思いをしないように生きている」と語る部分も印象的だ。幸福の基準を高く設定するほど、日常は「足りないもの」で埋め尽くされる。逆に、ハードルを下げることで、天気が良いことや、おいしいコーヒーの一杯が、ちゃんと喜びになる。
管理職として日々のマネジメントに追われるあなたにとっても、この視点は決して他人事ではないはずだ。
「今日の自分」を認めることが、部下の信頼を育てる理由
「部下から信頼されていない気がする」という悩みを抱える管理職は多い。しかし、信頼されていないのではなく、信頼の育て方を間違えている場合がほとんどだ。
ブリジットの哲学が示すのは、「できる自分を演じることをやめる」という逆説的な発想だ。管理職になると、弱みを見せることへの恐れが増す。失敗を認めることへの抵抗が生まれる。しかし部下は、完璧に振る舞うリーダーより、「今日はうまくいかなかった」と正直に認められるリーダーに安心感を覚えることが多い。
パリジェンヌたちが年齢を重ねても生き生きとしている理由のひとつは、自分の状態を素直に受け入れ、無理な演技をしないことだ。調子が悪い日は調子が悪いと認める。それが積み重なって、周囲との関係が自然体のものになっていく。
部下との1on1で「最近どうだ?」と聞かれても何も答えられない部下がいるとしたら、それはあなたが「正直に言える雰囲気」をつくれていないサインかもしれない。まず自分が、うまくいかなかった日のことを率直に話してみること。それだけで、場の空気は変わる。
「身体はやられても、エスプリは無傷」――コアを守る思考の力
第2章に登場するマリエル・K(81歳)の言葉は、本書の中でも特に力強い。病に侵されながら、彼女はこう語った。
「私の体は病気に蝕まれてしまった。でもね、私のエスプリや知性はまだ無傷。だから、これからも生きていけるの」
エスプリとは、フランス語で精神・知性・機知を意味する言葉だ。肉体が衰えても、自分のコアにある知性と精神性は外部からは侵されない――そう確信しているからこそ、マリエルは病を前にしても毅然としていられる。
これはプレゼンや提案が通らないとき、あるいは会議で存在感を出せないと感じているときにも使えるフレームだ。声が小さいことは、伝えたいことの価値を下げない。提案が一度却下されたことは、あなたの思考力の欠如を意味しない。コントロールできない「外側の結果」と、自分のコアにある「思考と誠実さ」を切り離す習慣が、精神的な安定をもたらす。
大事なのは、表面の結果ではなく、自分のエスプリを磨き続けることだ。マリエルがそう生きてきたように。
「幸福のハードルを下げる」と、家庭がもっと楽になる
ブリジットの言葉にある「できるだけ不幸にならないように生きる」という発想は、家庭でのコミュニケーションにも直接応用できる。
昇進後、在宅勤務が増えた結果、家族と過ごす時間は増えた。しかし、家族との会話がかみ合わないと感じている管理職は少なくない。それは多くの場合、「家族ともっとうまくコミュニケーションしなければ」という高い期待が、逆に場をぎこちなくしているからだ。
幸福のハードルを高く設定するほど、現実はいつも「もの足りない」になる。しかしパリジェンヌたちが教えるのは逆だ。「今日、妻と少し笑えた」「子どもが話しかけてきた」――そういった小さなことを、ちゃんと喜びとして受け取ること。完璧な夕食の会話ではなく、ふとした瞬間の温かさを見逃さないこと。
ブリジットが日常の些細な出来事に深い喜びを見出す習慣を持っているように、家庭での幸福感も「積み上げ」ではなく「気づき」で育つ。
フランスの「自己受容」が日本の管理職に刺さる理由
本書を読んで強く感じるのは、パリジェンヌたちの自己受容が「諦め」ではないということだ。ブリジットは悪い日に「何もしない」と決めるが、それは受動的な敗北ではなく、能動的な選択だ。マリエルは身体の衰えを受け入れながら、精神の力を信じて前を向く。
日本の職場文化では、「踏ん張ること」「頑張ること」が美徳とされることが多い。しかし、常に踏ん張り続けることが、かえって判断力を鈍らせ、部下への接し方を硬直させることがある。疲れているときは疲れていると認め、調子が悪い日には無理をしない。そのシンプルな自己受容が、翌日の仕事を、翌週の部下との関係を、少しずつ良い方向に変えていく。
著者のゴダール敏恵は、ソシオ・エステティシャンとして医療現場での施術を通じ、「美容が生きる力になる」現場を見続けてきた。彼女が本書で伝えようとしているのは、見た目の若さではなく、自分のあり方への誠実さだ。パリジェンヌたちの生き方は、年齢でも職位でもなく、「今日の自分を、今日の分だけ生きる」という覚悟から来ている。
「明日は新しい始まり」という言葉が、もたらす長期的な変化
本書を読み終えると、一つのことに気がつく。パリジェンヌたちの「幸福のハードルを下げる」という生き方は、短期的な妥協ではなく、長期的な精神的持続力を生む戦略だということだ。
ブリジットが「翌日はまた、新たな始まりだから」と言えるのは、翌日への信頼があるからだ。今日うまくいかなくても、明日は違う自分が来る――その確信が、今日の悪い日を引きずらないための力になっている。
管理職として、毎日が試験のように感じられる時期は誰にでもある。しかし、すべての日に100点を求めなくていい。今日の失敗は今日で終わりにして、明日に委ねる。その繰り返しが、じわじわと部下の信頼を育て、家族との関係を温め、自分自身の軸を太くしていく。
パリジェンヌたちが、70代・80代になっても自分らしく生きていられるのは、こうした長年の積み重ねがあるからだ。スタート地点はいつも、今日の自分を受け入れることから始まる。
『70代からのパリジェンヌ・スタイル』は、老いの話でも美容の話でもなく、どんな状況でも「自分のご機嫌を自分でとる」ための、実践的な人生哲学の本だ。

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