他人の夢を採点するとき、私たちは何者になるのか——朝井リョウ/イン・ザ・メガチャーチ/評価の倫理

部下の査定シートを前にして、あなたはどんな感情を持ちますか。責任感、緊張感、そして――正直に言えば――ある種の「力」の感覚はないでしょうか。この人の今年の評価を、等級を、場合によってはキャリアの方向性を、自分が決める。その重さを感じながらも、どこかに「裁定者である自分」という意識が浮かぶ瞬間は、管理職なら誰もが経験することではないかと思います。

会議室でプレゼンを聞くときも似た構図があります。発表者が緊張しながら言葉を選び、スライドをめくる。聴き手であるあなたは腕を組み、頷きながらその内容を「判定」する。提案が通るか否か、予算がつくか否か――その場の権力の非対称は、双方が感じながらも口にはしない。それは職場の日常風景ですが、少し目線を変えると、かなり非対称な関係性が静かに機能していることに気づきます。

朝井リョウの長編小説『イン・ザ・メガチャーチ』は、アイドルのオーディション番組を通じて、他者の夢や渇望を「コンテンツ」として消費し、投票という行為によって生殺与奪の権を手にすることの倫理的な問題を鋭く問います。読み進めながら、私たちは自分が「観客として楽しんでいた」はずの場所で、知らずのうちに加担していたものに気づかされます。

Amazon.co.jp: イン・ザ・メガチャーチ (日本経済新聞出版) 電子書籍: 朝井リョウ: Kindleストア
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他者の「人生をかけた挑戦」が娯楽になるとき

オーディション番組の構造は、シンプルながら強力です。若者たちが夢を語り、努力を見せ、涙を流す。視聴者はその姿に感動し、共感し、「応援したい」という純粋な感情を抱く。しかしその感情の背後に、他者の人生をかけた競争を安全な場所から楽しむという非対称な関係が成立しています。

本作の中で運営側の視点を担う久保田は、この非対称をシステムとして理解し、活用する立場から物語を語ります。候補者の葛藤、脱落の瞬間、仲間との決別――それらは視聴者の感情を最大化するために編集され、パッケージ化される。「感動」はコンテンツとして設計されたものであり、その素材は若者たちの本物の苦しみと渇望です。

朝井リョウが本書で突きつけるのは、この構造を前にして「自分は消費者ではなく応援者だ」と思い込むことへの疑念です。投票という行為は参加の形をとっていますが、そこには審判者としての快感が含まれていないか――という問いかけは、読者の胸に静かに刺さります。

「審判者」であることの快感と盲点

審判者の立場には、独特の快感があります。判定を下す側には責任がある一方、その責任は「正当な権限の行使」として社会的に承認されています。つまり、影響力の行使が公認されている状態です。

職場での評価者も、この構造の中にいます。部下の昇格を推薦する、プレゼンに承認を出す、採用面接で合否を決める――これらはすべて、他者の人生に影響を与える判断です。その判断を「公正に」「責任を持って」行っているという意識は正しい。しかし同時に、その「正当な審判者」という役割の中に、見えにくい快感や慣れが忍び込んでいないかどうかは、定期的に自問する価値があります。

採用面接を例にとると、複数の候補者の「人生への渇望」を一列に並べ、数十分の対話で比較評価するという行為は、本質的に非対称な権力関係の上に成り立っています。その場の緊張感を「やりがい」として感じるとき、自分は何を楽しんでいるのかを問い直すことは、より良い評価者になるための第一歩かもしれません。

「投票」が持つ生殺与奪の構造

本書が特に鋭く照らすのは、投票という行為の二面性です。

視聴者にとって投票は「推しを応援する行為」であり、純粋な善意に基づく参加です。しかしシステム全体を俯瞰すると、その投票の積み重ねが誰かの脱落を決め、誰かの夢の継続を決める。同じ行為が、ある人にとっての「愛の表現」であり、別の人にとっての「命運を左右する審判」になっています。

この二面性は、職場でのフィードバックとも重なります。「部下の成長のために正直なフィードバックをしている」という管理職の意識は本物です。しかし受け取る側にとって、そのフィードバックは自分のこれからを左右する言葉として届く。善意から発せられた言葉が、相手にとっては「審判」として機能しているという非対称は、管理職が意識しておかなければならない現実です。

言葉の意図と影響が一致するとは限りません。「育てようと思って言った言葉」が「切り捨てられた」と感じさせることがあるように、発信者の内側と受信者の内側には、つねに距離があります。

運営側の視点が暴く「楽しさ」の裏側

本作の中で最も不快な読後感をもたらすのは、運営側の内側から描かれる場面です。

視聴者が「感動した」と感じる瞬間が、どのような計算の上に設計されているかを知ったとき、感動の質は変わります。純粋だと思っていた自分の反応が、精巧に誘導されたものだったという気づきは、不快である一方で重要な問いを開きます。「私はこれを本当に楽しんでいたのか、それとも楽しまされていたのか」。

管理職としての日常に引き寄せると、この問いは「私は本当にチームのために判断しているのか、それとも評価者であることの快適さを守るために動いているのか」という形になります。耳の痛い問いかけですが、それを問い続けられる管理職とそうでない管理職とでは、長期的に大きな差が生まれます。

朝井リョウは本書で残酷さや悪意のある人物を描くのではなく、善意と合理性の中に静かに潜むグロテスクさを描きます。それが本作の最も本質的な恐ろしさであり、読者が自分自身を重ねてしまう理由でもあります。

夢を「素材」にしないために

では、評価する側の立場にいる私たちに、何ができるでしょうか。

まず必要なのは、評価行為に伴う権力の非対称を自覚することです。自覚することは権力を捨てることではなく、その権力を誰かの夢の素材として消費しないための最低限の前提です。採用面接で候補者の渇望に触れるとき、人事評価で部下の努力の跡を読むとき――その場に立つ自分が何者であるかを、少し意識するだけで態度は変わります。

次に、評価の基準と目的を明確にしておくことです。評価は相手をランク付けするためではなく、相手が次に進むための情報を提供するためにあるという原則を、評価する側が忘れやすい。「この部下の今後にとって、このフィードバックは何の役に立つか」という問いを先に立てることで、審判者ではなく伴走者としての評価に近づくことができます。

家庭でも同じ発想は生きます。子どもの行動を「正しいか正しくないか」で裁く前に、「この子が次に進むために必要な言葉は何か」を問う習慣は、親子関係の質を少しずつ変えていきます。

「観客席」から「同じ地面」へ

『イン・ザ・メガチャーチ』を読み終えた後、オーディション番組の投票画面を前にしたとき、あなたは何を思うでしょうか。

朝井リョウは本書で答えを示しません。ただ、その問いを置いていきます。他者の夢を消費することへの倫理的なジレンマを、どう引き受けるかは、読者それぞれに委ねられています。そして、その問いがリアルに感じられるほど、本書は読者の日常と繋がっています。

評価する側に立つことは、職場においても家庭においても避けられない役割です。しかしその役割を、観客席から舞台を裁く立場として引き受けるのか、同じ地面の上で相手と向き合う立場として引き受けるのか――その選択は、毎回の評価の場面で静かに問われています。

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NR書評猫1420_朝井リョウ イン・ザ・メガチャーチ

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