# 「あの人の本当の姿」は、最後まで変わり続ける――櫻田智也/失われた貌/人物像の再構築
「あの人のことは、もうわかっている」と思っていた相手が、実はまったく違う顔を持っていた――。そう気づかされた瞬間のことを、思い出せますか。
長く一緒に働いてきた部下が、思いがけない理由で突然辞表を出した。何年も連れ添ってきた妻が、自分の知らない悩みを抱えていた。頼りにしていたはずの同僚が、実は自分のことを快く思っていなかった。人を「わかった」と思う瞬間と、「全然わかっていなかった」と思い知らされる瞬間は、隣り合わせにあります。
ミステリ三冠を達成した『失われた貌』は、この「人物像の二転三転」を、物語の中核に据えた作品です。捜査の進展とともに、被害者や容疑者をめぐる人物像がくつがえり続ける。密室トリックや毒殺方法の解明ではなく、人間そのものの解釈が書き換わっていくという高度な技法が、本作を他のミステリとは一線を画す存在にしています。
「人物の再構築」という、ミステリの最も難しい技法
ミステリには様々な趣向があります。密室から犯人はどうやって脱出したのか。アリバイはどこに崩しどころがあるのか。被害者は何の毒で殺されたのか。これらは読者が謎に向き合う入口としてわかりやすく、解決の瞬間に「なるほど」という快感をもたらします。
しかし本作が採用するのは、それとは異なる次元の技法です。「あの人はこういう人だった」という人物像そのものが、読み進めるにつれて二転三転していく。登場人物の表情でも声でもなく、その人間存在に対する読者自身の「解釈」が書き換わっていく――。このアプローチを批評家たちは「人物の再構築」と呼び、本作の最大の達成のひとつとして高く評価しています。
捜査が進むほど、像がくつがえる構造の妙
物語の序盤で提示される被害者の印象は、ある程度の輪郭を持っています。関係者の証言から積み上げられた、ひとりの人間の姿。しかしその像は、捜査が進むにつれて少しずつ、ときに一気に書き換えられていきます。
新たな証言が加わるたびに、「そういう人だったのか」という理解が更新されます。そして更新のたびに、それまでの理解がいかに表面的だったかを、読者は思い知らされます。容疑者についても同じです。「この人が犯人ではないか」という疑惑が濃くなった次の瞬間、その見立てを根底からくつがえす事実が現れる。このくり返しが、読者を物語から離させない強力な牽引力になっています。
ミステリランキング三冠の評価を支えているのは、こうした構造の精緻さにほかなりません。
人間を「わかる」とはどういうことか
本作が問いかけるのは、「捜査の難しさ」だけではありません。人間を理解するとはどういうことか、という根本的な問いです。
捜査係長の日野雪彦は、証言を積み上げ、データを照合し、地道な手続きを重ねながら被害者の実像に迫ろうとします。しかし実像に近づくほど、かえって像が揺らいでいく感覚を味わいます。人間は複数の顔を持ち、関わる相手によって見せる側面が変わる。ある人には信頼できる人物に見え、別の人には不可解な人物に映る。どれが本当の姿なのか、答えは一枚岩ではないのです。
これは組織の中で人を評価する立場に置かれたとき、誰もが直面する問いと重なります。部下の本当の力量は、評価面談の印象だけでは測れない。普段おとなしい人が、いざという場面で誰より頼りになることがある。逆もまた然りです。本作はそうした複雑さを、ミステリという形式で正面から描いています。
著者・櫻田智也が初の長編に込めた野心
本作の著者・櫻田智也は、連作短編集『蟬かえる』で第74回日本推理作家協会賞と第21回本格ミステリ大賞をダブル受賞した実力者です。これまでの代表作では、昆虫学の知識をトリックの鍵として活用する独自のスタイルが高く評価されてきました。
しかし本作は、著者にとって初のノンシリーズ長編という新しい挑戦です。短編で培った精緻な論理構築の技術を、300ページを超える長大なキャンバスに広げることで、短編では実現できなかったスケールの「人物の再構築」が可能になりました。序盤で植えられた小さな伏線が、ページを重ねるごとに意味を変えながら、終盤の一点に向かって収束していく。著者がこの長編で達成しようとした野心の大きさが、読後に改めて伝わってきます。
「わかった」と思った瞬間こそ、疑ってほしい
本作を読むうえで、ひとつの楽しみ方を提案します。「この人物の本当の姿がわかった」と感じた瞬間を、意識してみてください。
きっとその確信は、後のページでくつがえされます。そしてそのたびに、自分がどんな先入観を持って人物を読んでいたかが浮かび上がってきます。ミステリとして読む快感と同時に、他者理解の難しさを自分ごととして体感できる――それが本作の読書体験の核心です。
職場でも家庭でも、人は「わかった」と思った瞬間に観察をやめてしまいがちです。しかし人は変わり続け、見せる顔は関係性によって異なります。本作が静かに教えてくれるのは、他者を理解し続けることは終わりのない営みだということです。三冠を達成したミステリとして手に取るのはもちろん、人間関係を深く考えたいすべての方に、自信を持っておすすめできる一冊です。

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