「足元の幸福に、まだ気づいていなかった」——瀬尾まいこ/ありか/日常の充足

「もっとちゃんとした家族の時間を作らなければ」「部下との関係を改善するために、何か特別なことをしなければ」――そう思いながら、忙しい日々の中でその「特別なこと」はいつも後回しになっていく。ゴールを遠くに設定するほど、今日の毎日が「まだ本番ではない準備期間」のように感じられてしまいます。

瀬尾まいこの小説『ありか』は、そのような焦りを静かに解きほぐしてくれる物語です。主人公・美空の日常には、高級レストランも海外旅行も登場しません。仕事帰りの何気ない道すがら、娘・ひかりとの他愛のない会話――そのありふれた風景の中に、充足感が確かに宿っています。本書は、足元にすでにある幸福を再発見するためのレンズです。その視点が、職場でも家庭でも、今日から使えるものに変わります。

ありか
愛はここにある。幸せはここにいる。「これまでの私の人生を全部込めたと言い切れる作品を描きました」――瀬尾まいこ母親との関係に悩みながらも、一人娘のひかりを慈しみ育てる、シングルマザーの美空。義弟で同性のことが好きな颯斗は、兄と美空が離婚した...

「もっと特別なことをしなければ」という疲弊

管理職になってからというもの、「もっとやらなければ」という感覚が抜けない方は多いはずです。部下との信頼構築のために特別な場を設けなければ、提案力を上げるために特別な研修を受けなければ、家族との関係を良くするために特別な休日を作らなければ――「特別なこと」を求め続ける思考は、実は今日の自分を常に不十分なものとして見る視点から来ています。

この状態では、何かを達成してもすぐに次の「もっと特別なこと」が現れます。充足感が定着しない。昇進しても、年収が上がっても、何かが足りないままです。

美空の生活には余裕がありません。経済的にも時間的も切り詰めた日常です。それでも彼女が娘・ひかりとの生活の中に確かな充足を見出せるのは、「今ここにあるもの」に目を向ける感性を持っているからです。特別なことが起きなくても、今日の帰り道に空が綺麗だったこと、ひかりが面白いことを言ったこと――それが幸福の実質として積み重なっていきます。

仕事帰りの道すがらに、幸福は落ちていた

残業を終えて会社を出る。疲れた足で駅まで歩く。その数分間を、多くの人は「何もない移動時間」として過ごします。明日の仕事のことを考えるか、スマートフォンを眺めるか、あるいはただ疲労感に浸るか。

本書が描く美空の帰り道は違います。工場のパートを終えて帰る道の感触、夕暮れの色、ひかりが待っているという感覚――それらが彼女にとって、日常の中のささやかな充足として描かれます。特別な出来事ではない。でも、その時間に意識を向けているかどうかが、同じ道を歩いても全く異なる体験を生み出します。

瀬尾まいこが「幸せというテーマに初めて真正面から向き合った」と語るこの作品が示すのは、幸福は遠くにあるものを手に入れることではなく、すでにある場所に意識を向けることだという真実です。仕事帰りの数分間が、一日の疲れを少し和らげる時間になるかどうかは、その道をどんな目で歩くかにかかっています。

部下との何気ない一言が、信頼の核心にある

信頼を築くために「特別な場」を設けることを考えがちですが、実際に部下の記憶に残るのは、多くの場合、特別な場での言葉ではありません。廊下ですれ違いざまにかけた一言、会議が終わった後のちょっとした会話、報告を受けたときの短い反応――そういった何気ない瞬間の積み重ねが、部下の中に「この上司は自分を見てくれている」という感覚を育てます。

美空とひかりの関係が温かいのは、特別なイベントがあったからではありません。毎日の他愛のない会話の中で、母親が自分の言葉に耳を傾けてくれるという経験の積み重ねが、ひかりの安心感を作っています。

部下との一対一の面談の時間より、日常の何気ない声かけのほうが信頼に効いている――そういうことは実際によくあります。「最近どう?」という廊下での一言が、部下にとっての「この人に相談できる」という感覚の起点になっていたりします。特別な場を作る前に、今日の何気ない一言を丁寧にすることのほうが、先かもしれません。

「小さな改善」を誇れる提案が、組織を変える

プレゼンや提案で「大きな成果」を示そうと力んでしまうことがあります。インパクトのある数字、抜本的な変革案、業界を変えるような構想――それらは確かに注目を集めますが、実現のハードルが高く、聴衆に「すごいけど無理だろう」という感想を残しがちです。

一方、日常の業務の中の「小さな充足」に目を向けた提案は、聴衆の共感を得やすい。「今週の会議を一つ減らすことで、チームの集中時間が三十分増えました」「このフォーマットを変えただけで、報告にかかる時間が半分になりました」――ささやかな改善の積み重ねを誇れる提案は、大きな変革案より実行されやすく、次の提案への信頼につながります。

本書が足元の幸福を再発見するレンズであるように、組織の中でも「すでにうまくいっていること」「小さいけれど確かな改善」に光を当てる提案が、組織の自己肯定感を育て、さらなる改善への意欲を引き出します。

家族の他愛のない会話に、関係の本質がある

「家族との時間を大切にしなければ」と思いながら、忙しさを理由に後回しにしていると、いつか「特別な機会」を作って取り戻そうとします。旅行に行く、外食をする、一日どこかに出かける――それはもちろん大切ですが、家族の関係の実質を作っているのは、そういった特別な時間よりも毎日の他愛のない会話です。

夕飯のテーブルで「今日学校どうだった」と聞く、妻が何かを話しているときにスマートフォンを置いてちゃんと聞く、おやすみを言うとき少し目を見る――そういった日常のひとこまの丁寧さが、家族という関係の土台を作っています。

美空とひかりの絆が深いのも、特別なことをしてきたからではなく、当たり前の風景の中にある会話を、美空が大切に扱ってきたからです。その積み重ねが、ひかりにとっての「ここが自分の場所だ」という感覚の根になっています。

足元を見る目を取り戻したとき、人生が変わる

『ありか』が読者に与える最も深い贈り物は、「もっと特別なものが必要だ」という焦りが、実は幸福を遠ざけてきたことへの静かな気づきです。

足元にある幸福を再発見するとは、今日の帰り道を少し意識して歩くこと、部下への一言を丁寧にすること、家族との夕飯の時間にちゃんといること――そういった小さな選択の積み重ねです。劇的な変化ではなく、今日から始められることです。

部下の信頼も、通る提案も、家族との良好な関係も、遠い場所にある特別なものではありません。今日すでにそこにある日常の中に、その種は落ちています。それに気づく目を持てたとき、毎日の景色が少し変わります。美空が娘との日常の中に確かな充足を見出したように、あなたの足元にも、まだ気づいていない幸福があります。

ありか
愛はここにある。幸せはここにいる。「これまでの私の人生を全部込めたと言い切れる作品を描きました」――瀬尾まいこ母親との関係に悩みながらも、一人娘のひかりを慈しみ育てる、シングルマザーの美空。義弟で同性のことが好きな颯斗は、兄と美空が離婚した...

NR書評猫1419 瀬尾まいこ ありか

注意

・Amazonのアソシエイトとして、双子のドラ猫は適格販売により収入を得ています。
・この記事は情報提供を目的としたものであり、医学的・法律的なアドバイス等の専門情報を含みません。何らかの懸念がある場合は、必ず医師、弁護士等の専門家に相談してください。
・記事の内容は最新の情報に基づいていますが、専門的な知見は常に更新されているため、最新の情報を確認することをお勧めします。
・記事内に個人名が含まれる場合、基本的に、その個人名は仮の名前であり実名ではありません。

コメント

タイトルとURLをコピーしました