部下が反論できない本当の理由〜橋本治『上司は思いつきでものを言う』が明かす1300年の呪縛

会議の場で、上司がおもむろにこう言い出したとします。「最近AIが流行っているから、うちもAIで何かやれ」。あなたは技術的な実現可能性も予算感覚も分かっているのに、なぜか言葉が出てこない。隣の同僚も、下を向いたまま黙っている。そして気づけば、誰も反論しないまま会議が終わっている……。

これは、あなたが臆病だからでも、説明力が足りないからでもありません。橋本治さんの著書『上司は思いつきでものを言う』は、この「なぜか反論できない」という現象の根っこに、1300年以上前から続く日本特有の文化的構造があることを明らかにしてくれます。上司の理不尽な指示に悩むすべての方に、ぜひ読んでいただきたい一冊です。

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思いつき指示に黙り込んでしまう、あの感覚の正体

「上司の発言に納得できない。でも、何も言えなかった」という経験は、多くの管理職の方にも身に覚えがあるはずです。部下の立場だったころはもちろん、今は自分が上司という立場になってみると、かえってよく分かる。あの沈黙は、単なる空気の読み過ぎではなかったのです。

橋本治さんは本書の中で、この現象を「感情の問題」ではなく「構造の問題」として捉えています。つまり、日本の職場で部下が上司に反論できないのは、個人の勇気や能力の問題ではなく、組織そのものに埋め込まれた力学によるものだということです。

では、その構造とは何か。著者はそれを「儒教」という古代の思想にまで遡って解き明かしていきます。

「上に立つ者には徳がある」という思い込みの罠

儒教が本来説く考え方は、「上に立つ者は徳を備えなければならない」というものです。これは、上位者に対する規範的な要請、つまり「上の者はそうあるべきだ」という理想論です。

ところが日本社会でこの考え方が受け入れられていく過程で、微妙なすり替えが起きました。「上に立っているのだから、その人には徳があるはずだ」という現状肯定の論理へと変質してしまったのです。

このたった一語の変化が、職場に決定的な影響を与えています。反論は徳への反逆とみなされる。そのため上司の指示に異を唱えることが、単なる業務上の意見交換にとどまらず、身分秩序そのものへの挑戦として受け取られてしまうのです。反論の言葉を持っていても、それを口にすることが場の空気を壊す行為になってしまう。だから部下は黙るしかない。

1300年前から続く、この国の官僚文化

この構造は、昨日今日にできたものではありません。著者はその起源を、約1300年前の聖徳太子の時代にまで遡ります。

日本は「十七条の憲法」で儒教の理念を国の運営に取り込み、それを「冠位十二階の制」という官僚システムに組み込みました。身分の序列を国家の基盤とする仕組みを、古代の日本は自ら選んで取り入れたのです。

橋本治さんはここで鋭い指摘をしています。儒教そのものが身分制度を肯定するかどうかは解釈次第なのですが、日本という既存の身分制度のある社会に儒教が入ってきた結果、その構造が極めて強固になってしまった、と。何かが変わりそうになっても、形式的な秩序を守ることが最優先される社会が出来上がった。この意識は現代のオフィスにも、確実に受け継がれているのです。

「能力主義」と「長幼の序」がぶつかる職場の現実

では、現代の職場ではどのような矛盾が生じているのでしょうか。

表向き、日本の多くの企業は「能力主義」や「成果主義」を標榜しています。採用でも評価制度でも、「実力があれば認められる」という論理が語られます。ところが組織の深層には、「年上の者・上位の者を敬い、下から意見するべきではない」という儒教的な感覚がこびりついています。

この二つのシステムが一人の人間の中で同時に動いているとき、何が起きるか。たとえば、データに基づいた改善案を持つ若手が、年功序列で昇進した上司に提案をしようとしたとします。建前の能力主義では「良い提案は歓迎される」はずです。しかし、本音の儒教的秩序は「下からの意見具申」を心理的に排除しようとします。結果として「時期尚早」「もう少し検討を」という言葉で、決定が先送りにされ続けます。

この二重基準こそが、組織を機能不全に陥らせると著者は喝破します。部下が沈黙するのは、臆病でも論理力が足りないからでもありません。矛盾した二つのOSを同時に抱えているからこそ、言葉が出てこないのです。

「反論できなかった自分」を責めなくていい理由

ここまで読んで、少し気持ちが楽になりませんか。

あのとき反論できなかったのは、あなたが弱かったからではありません。1300年かけて日本社会が積み上げてきた構造に、あなたも巻き込まれていただけなのです。「上司への反論は徳への反逆」というコードが、無意識のうちに言葉を飲み込ませていた。それを「個人の問題」として片付けるのは、構造への理解が足りないということになります。

同時に、部下が黙ることに慣れてしまった上司の側にも、この呪縛は当てはまります。「なぜ部下は何も言わないのだろう」と感じているなら、それはコミュニケーション技術の問題ではなく、組織の中に染みついた文化的なプレッシャーが部下を縛っているからかもしれません。

管理職として部下の信頼を得たいと思うなら、まずこの構造を自分の頭の中で解体することが第一歩になります。部下の声が上がりにくい仕組みがあると知るだけで、部下への接し方は確実に変わります。

この本を読んで変わる、職場の見え方

橋本治さんの言葉の魅力は、日常の些細な不満を一気に歴史的な高みから見せてくれる点にあります。「なぜうちの会議はこうなのか」「なぜ誰も本音を言わないのか」という問いに、1300年という時間軸で答えを出してくれる。読み終えたあとに職場を見ると、そこに漂う沈黙の意味が、まるで違って見えてきます。

本書は「思いつきで語る上司にどう対処すべきか」という実践論で終わるだけでなく、その手前にある「なぜそうなのか」という根本的な問いにきちんと向き合っています。問題の原因を理解せずに対処法だけを学んでも、状況は変わりません。この本はその「原因の解明」において、類書の追随を許さない深みを持っています。

ビジネス書を読み慣れた方にも、久しぶりに「なるほど」と膝を打つ体験をもたらしてくれる一冊です。ぜひ手に取ってみてください。

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NR書評猫1181 橋本治 上司は思いつきでものを言う

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