会議室の窓から見える青空に、戦闘機が轟音を立てて飛んでいく光景を想像できるでしょうか。家族で食卓を囲む時間に、水道水の汚染を心配しなければならない状況を想像できるでしょうか。上間陽子氏のエッセイ集『海をあげる』は、私たちが普段意識することのない沖縄の厳しい現実を、静かでありながら鋭い言葉で描き出しています。本書は単なる沖縄論ではなく、理不尽な状況に置かれた人々の声を丁寧に拾い上げ、読者に深い問いを投げかける一冊です。
日常に割り込む非日常
普天間基地のそばで暮らす著者の家族は、空に軍機が自由気ままに飛び、日常生活が轟音によって中断される環境で生活しています。私たちがオンライン会議で集中している時、資料作成に没頭している時、家族と夕食を楽しんでいる時──そんな何気ない日常が、突然の轟音によって分断される生活を想像してみてください。
著者は淡々と事実を綴りながらも、心の底からの怒りと悲しみをにじませています。これは声高な告発ではなく、静かに積み重ねられた言葉によって浮かび上がる告発です。基地周辺の市街地で発覚した水道水の汚染、民意を示す県民投票の十全な実施を阻もうとする自治体市長へのハンガーストライキ──どれもが沖縄に押し付けられた理不尽そのものです。
幼い娘の問いが映し出す矛盾
本書の白眉ともいえる場面があります。辺野古で座り込み抗議をした帰り道、幼い娘が母親である著者に尋ねるのです。
「海に土を入れたら、魚はどうなるの?」「警察は怖かった?」
この純粋な問いかけには、大人の論理や政治的な駆け引きは一切ありません。子どもの目に映る素朴な疑問が、かえって問題の本質を突いています。著者は幼い我が子の疑問に答えながら、戦争によって奪われ土に眠る命、繰り返される米兵による性暴力とそれを放置する権力への怒りを静かに言葉に乗せていきます。
地上戦によって絶えた命が沖縄の大地に眠り続けています。米兵による性暴力は繰り返され、権力はそれを放置してきました。沖縄の人たちが何度「やめて」と頼んでも、青い海に今日も土砂が入れられる現実があります。
差別する側と差別される側
著者は問いかけます。「これが差別でなくてなんだろう?」
そして続けて、重要な指摘をします。「差別をやめる責任は、差別される側ではなく差別する側のほうにある」と。力の強いものと、力を持たないものがいて、力の強いものは、持たないものが言葉を持つことを恐れます。警戒し、早めに潰そうとするのです。
この視点は、組織の中で働く私たちにも示唆を与えてくれます。マネジメントの立場にある者は、部下の声に耳を傾けているでしょうか。組織の論理で一方的に押し付けていないでしょうか。力を持つ側の責任について、本書は静かに、しかし確実に問いかけてきます。
言葉を失ったものたちから聞き取る
上間氏は長年、未成年の少女たちの支援と調査に携わってきました。「聞く耳を持つものの前でしか言葉は紡がれない」という一節が示すように、著者はかすかな声を漏らさず書き留める姿勢を貫いています。
たとえば17歳になったばかりのシングルマザーとの対話では、彼女が質問に「うん」「ううん」としか答えられない場面が描かれます。それでも著者は時間をかけて沈黙やうめき声の奥にある言葉を待ち受け、その背景にある彼女たちの傷ついた記憶に思いを寄せるのです。
著者は「言葉を失ったものたちから残された言葉、そして新しい言葉を聞き取る。人間を信頼するとはこういうことなのかと知った」と述べています。沈黙の中から紡がれた言葉に耳を傾け、それを記録し伝える本書の姿勢は、声なき者の思いを社会に届ける力強さを示しています。
個人の痛みから社会の構造が見える
本書には、不倫相手の友人への怒りを綴った章があります。一見すると個人的な感情の吐露に見えるこの章は、実は本土と沖縄の関係の比喩として読むことができます。
何食わぬ顔で付き合いながら沖縄に基地負担という犠牲を強い、その「おいしいところ取り」をしてきた本土の姿を、不倫相手の友人に重ね合わせているという解釈です。著者自身も「東京で沖縄はいい所だと無邪気に賞賛する人たちや、基地問題に関心を示しつつ基地を押し付けてきたことに無自覚な人たちの中で暮らしてきて、沖縄の厳しい状況に身を置かねばと思い詰めていた」と独白しています。
この個人の痛みから社会の不条理を浮き彫りにする視点は、本書の大きな特徴です。プライベートな感情と社会的な問題が地続きであることを、著者は自らの体験を通して示しています。
本土に暮らす私たちが向き合うべきこと
本書は沖縄に暮らす人々の物語ですが、同時に本土に暮らす私たちへの問いかけでもあります。私たちは知らず知らずのうちに、誰かの犠牲の上に快適な生活を築いていないでしょうか。組織の中でも同様です。自分の快適さのために、誰かに負担を押し付けていないでしょうか。
上間陽子氏の『海をあげる』は、Yahoo!ニュース|本屋大賞2021ノンフィクション本大賞や沖縄書店大賞沖縄部門大賞など数々の賞に輝きました。それは本書が、単なる地域の問題を超えて、現代社会の構造的な問題を鋭く突いているからでしょう。
静かで揺るぎない眼差しで描かれたエッセイの数々は、読む者に深い余韻と問いかけを残します。本書を読み終えた後、あなたは自分自身の立ち位置について、あらためて考えることになるはずです。

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