江戸時代に「労咳(ろうがい)」と呼ばれていた病は、現代でいう肺結核のことです。この疾患は日本の歴史において深い影響を与え、多くの命を奪いました。江戸時代には医学的知識の限界から様々な民間療法や迷信が生まれ、当時の文化や社会にも大きな影響を与えていました。
労咳の呼称と意味
江戸時代、肺結核は「労咳(ろうがい)」や「労衰(ろうさい)」と呼ばれていました。これらの名称は、疾患の特徴的な症状に由来しています。労咳は「疲労によって起こる咳をともなう衰弱」を意味し、労衰は「疲れて擦り切れる」という意味を持っていました。これは英語の「consumption(消耗)」や漢方医学の「消耗症」と同様に、患者が次第に衰弱していく様子を表現しています。
また、江戸時代には結核を「骨蒸」「傳屍」「鬱症」「ぶらぶら病」など様々な呼称で表現していました。これらの呼び名は、当時の人々が持っていた結核に対する様々な見方や認識を反映していました。
江戸時代における労咳の流行
日本では弥生時代から結核の存在が確認されていますが、本格的な流行は社会の都市化や産業革命が進んだ江戸時代から明治にかけてと考えられています。特に江戸時代に入ると、長らく潜伏していた結核菌が「蠢動(しゅんどう)」し始めたという説があります。
三田村鳶魚の研究によれば、慶長(1596年~1615年)以来世間を恐れさせていた結核は、江戸時代になり次第に多くなっていったとされています。江戸時代初期に書かれた「慶長見聞記」には「瘍療流行を皆人煩へり。さる程に医師達、この流行り病をなほし、手柄なせんと術をつくし、良薬を与ふといへども治すること難し」という記述があり、当時の結核の流行状況と治療の困難さを物語っています。
1858年に語られた「振袖火事」の因縁話にも労咳の蔓延が示唆されており、この時代には結核が庶民の間で珍しい病気ではなくなっていたことがうかがえます。特に文化文政時代(1804年~1830年頃)には結核患者が増加し、川柳にも結核患者を揶揄したものが多く登場するようになりました。
江戸時代の労咳観と病因論
結核の原因に関する認識
江戸時代には結核菌の存在は知られておらず(結核菌の発見は1882年のロベルト・コッホによるもの)、労咳の原因についても様々な見解がありました。当時は病原菌という概念自体がなかったため、労咳は一種の心身症と考えられていました。
病因としては主に以下のようなものが考えられていました:
- 遺伝による要因
- 心労や精神の疲労
- 房事(性行為)による過度の消耗
- 気の鬱滞による病(気鬱病)
労咳患者の特性と社会的見方
当時の人々は労咳患者に特有の性格や特徴があると考えていました。「らうさいかたぎ」と呼ばれる陰気な性格の持ち主や、性的欲求不満の人、あるいは房事過度の人が労咳になりやすいと考えられていました。
また、美しい女性が若くして亡くなるという「佳人薄命」の考え方も結核観と結びついており、これはヨーロッパの結核観と近似していました。実際には労働環境や栄養状態、衛生状態など社会的要因が大きく影響していましたが、当時はそうした視点は限られていました。
江戸時代の労咳治療法と民間療法
民間療法と迷信
医学的知識が限られていた江戸時代、労咳に対しては様々な民間療法や迷信が存在していました:
- 黒猫を飼育すると労咳が治るという信仰
- 背中の四箇所に「四火患門の灸」をすえる治療法
- 朝鮮人参(高麗人参)を飲むことで治癒するという考え(「娘を売って高麗人参を買う」という話は日常茶飯事だったといわれます)
- 気鬱病が原因と考え、「吉原でパッと遊べば治る」といった考え方もありました
- コルクを焼いて粉にしたものを飲むという療法
これらの民間療法は科学的根拠がなかったものの、病に苦しむ人々に一定の心理的救いを与えていたと考えられます。
社会的対応と迷信
病気の正体が分からない時代、疫病退散のために様々な対応がなされていました。鐘や太鼓をたたいたり狼煙をあげて疫病神を追い出そうとする行為なども行われていました。また、明治時代に入ってからですが、ラムネがコレラやその他の病気の予防に効くという噂から、ラムネの人気が上昇したという記録もあります。
江戸時代の医学と結核研究
医学書における結核の記述
江戸時代に入ると医学にも実証主義的な傾向が現れ、結核に関する観察も精細になっていきました。宮川春暉の「雑病紀文」(1805年)や本間玄洞の「内科秘録」(1864年)には結核に関する深い認識が記載されています。
特に本間玄洞は江戸日本橋に開業した名医で、1847年から1848年にかけての1年半の間に55名の結核患者を診療し、そのうち40名は20~40歳だったという記録を残しています。また外科を得意としており、塾生も30人以上抱えていたといいます。こうした医師たちの地道な観察と記録が、後の結核研究の基礎となりました。
医学の進歩と結核への理解
江戸時代後期から明治時代にかけて、西洋医学の影響を受けて日本の医学も発展していきました。ただし、結核菌の発見は1882年のことであり、江戸時代においては原因の特定や効果的な治療法の確立には至りませんでした。科学的な結核治療が可能になったのは、20世紀中頃の抗生物質の発見以降です。
歴史上の人物と労咳
著名な罹患者たち
江戸時代から明治・大正・昭和にかけて、多くの著名人が結核によって命を落としています。幕末の志士・高杉晋作や新選組の剣の達人・沖田総司が肺結核で亡くなったことはよく知られています。
明治以降も、石川啄木、樋口一葉、正岡子規、立原道造、堀辰雄、高山樗牛、国木田独歩、竹久夢二、長塚節、中原中也、新美南吉、梶井基次郎、瀧廉太郎、佐伯祐三、新島襄など多くの文化人や芸術家が結核で命を落としています。これらの人々の早すぎる死は、日本の文化や芸術に計り知れない影響を与えました。
沖田総司と労咳
新選組の天才剣士として知られる沖田総司は、労咳の代表的な犠牲者です。元治元(1864)年の池田屋事件で戦闘中に喀血して昏倒したというエピソードが有名ですが、実際には熱中症のようなものだったと考えられており、本格的に症状が悪化し始めたのは慶応3(1867)年の秋~冬ごろではないかとされています。最終的に沖田は慶応4(1868)年5月30日に千駄ケ谷で27歳(一説には25歳)の若さで亡くなりました。
結核の国民病化への道
江戸から明治へ
江戸時代に次第に広がりを見せた結核は、明治時代になると産業革命の本格化や都市化の進展とともに爆発的に増加しました。都会で感染・罹患した労働者が郷里に帰り、そこで結核を伝播させるというパターンで、結核は都市から農村へと広がっていきました。
特に犠牲が大きかったのは、紡績工場で働く女工たちでした。例えば、製糸業が盛んだった福井県では、1920年の15歳女性の結核死亡率が人口10万人あたり763人に達するという恐ろしい状況でした。長時間労働や深夜業による過労・栄養不足、集団生活に加え、糸の保護のため湿度が高い工場内の環境も結核菌の増殖を促進していました。
こうして結核は「国民病」「亡国病」と呼ばれるほどの猛威を振るい、1935年から終戦まで死亡原因の第1位となり、全死亡の約12%を占めるに至りました。結核の克服は、まさに日本の近代化の過程と密接に関わる大きな課題だったのです。
結論
江戸時代の労咳(肺結核)は、庶民の日常に深く根ざした恐ろしい疾患でした。医学的知識が限られた時代、人々は様々な民間療法や迷信に頼るしかなく、多くの命が失われました。それでも江戸時代後期には医学も実証主義的な方向に進み、結核への理解も深まっていきましたが、本格的な予防や治療が可能になるのは20世紀中頃まで待たなければなりませんでした。
江戸時代から明治へと受け継がれた結核との闘いは、日本の近代化の過程において重要な公衆衛生上の課題となり、最終的には医学の進歩と社会環境の改善によって克服されていきました。今日では結核は過去の病気と思われがちですが、実は現代でも世界的に重要な感染症の一つであり、日本でも毎年新たな患者が報告されています。江戸時代の労咳の歴史は、感染症との闘いに終わりはないことを私たちに教えてくれるのです。
参考情報
国立国会図書館 本の万華鏡 https://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/11/2.html
Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/163443
日本結核・非結核性抗酸菌症学会 https://www.kekkaku.gr.jp/academic_journal/pdf/data_56/data_56_8/p407-422.pdf


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